『事上磨錬』・・・ 人須在事上磨錬做功夫、乃有u。 若只好靜、遇事便亂、終無長進、那靜時功夫亦差。

2009年05月05日

知識や技術を身につけることと、心を磨くことはイコールではない

林田明大先生のブログからの引用
どれほど技術的に優れた陶芸家や役者になろうとも、人間性が向上するという事とは別問題なのだ

知識や技術を身につけることと、心を磨くことはイコールではないのだ。
 知識や技術を、
「型(形)」
 と言い換えてもいいだろう。
 中国武術・韓氏意拳を学んで気づいたことだが、
「型(形)」
 をいくら完璧にマスターしたとしても、技術が向上する、つまり実力が伴ってくるわけでは決してない。
 心が育まれるわけでも、もちろんない。
 調教師が指導して、動物にいくら芸を覚えこませようが、その動物が芸を覚えた分、心が豊かになったという話は聞いたことがない。技術はあくまでも技術なのである。
 どれほど技術的に優れた陶芸家や役者になろうとも、人間性が向上するという事とは別問題なのだ。
 一流の役者だから、人間性も一流と思いたいところだが(苦笑)。
 相撲が強いからと言って、人間性が伴っているわけでは決してない(笑)。
 真に道を求めることと、知識や技術及び形をストックすることとは、まるで別なのである。
 もちろん、知識や技術を極めたその先の世界に気付く人がいるのかもしれないが、往々にして形、つまり枠という世界の中で知らず知らずのうちに小成してしまうようである。
 大成ではなく、小成、つまり
「少しばかりの成功に安んじる」
 ことになってしまう。
 後継者はいても、師を超える人物が現れないのは、師が教える知識や技術、型を信じて疑わないことにあるのだ。
 一方では、師を超えそうな優れた弟子が現れると、師の焼きもちから、つぶされてしまうようだ。これは、本当の話である(笑)。
 師といえども、決して人格者ではない。

林田明大の「夢酔独言」
http://blog.livedoor.jp/akio_hayashida/

林田明大先生にはいつも学ばせて頂いております。感謝します。


最近は色々なことがあり、学びと気付き・・・反省も多いです。
まさにブログのタイトルである事上磨錬かと・・・(苦笑)

生徒達に日本語を教え覚えた所で心の成長ではない
次のステップとして「道徳」を日本語で教える授業を仲間の先生が取り組んでおります。

日頃、学校のトイレが汚いということや整理整頓ができていないという問題から「トイレはなぜ綺麗にするべきか?」「整理整頓はなぜ大切か?」等の課題を与え生徒達に考えさせるという試み

新たな試み「道徳」という授業で、どう生徒達の行動が変わるか気になる所です。

ふと思ったが、かるたで作成した「論語読みの論語知らず」いや「伝習録読みの伝習録知らず」とは僕のことだろう・・・・と (苦笑)

今まで様々な自己啓発の本を読んだが・・・
イコール心を磨いたことではないのだから

実践!実践!

良知を発揮します。
posted by ジン at 15:48| Comment(2) | TrackBack(0) | 儒学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月29日

孟子から学ぶ

今日は少し時間があるので日ごろの悩みであるカンボジアの生徒達のことと、自分自身教える立場であり、先生とはどうあるべきか?等など・・・
色々とウェブサイトを見ていたら気になるコラムがありました。

教えるべきか、発憤を待って教えざるべきか

※9年前に書かれたコラムです。 

以前、新聞を読んで考えさせられましたが、今の高校の教師が高校生を教える時には、あたかも食べ物を口元に運ぶかのようにしなければ生徒は理解しようとしないとありました。
 私自身塾講師としての経験を持っていて、成績が伸びない理由について生徒側の言い訳は学校の授業についていけない、興味を持てない、学校の先生と馬が合わない、感情的・生理的に先生との時間・空間を共有したくないなど、さまざまでした。それこそ教育心理学のテキストに詳説されていないものです。これは他人を意識し自我を意識しアイデンティティ確立しようとする時に現れる葛藤によってもたらされた現象と考えられますが、おおよその人はそのような感情に惑わされ反抗的態度に染まった時期があるのでしょう。この時期をどのように乗り越えるかは各人の資質・環境によって様々でしょう。未熟・不安定な精神状態にある生徒側は自己の主張をとかく正当化しようとします。ただ教える側はそのわがままを助長させることないよう適切に対処せねばなりません。
 かつての日本は学歴・偏差値が一番とばかり人間性を損なってまで生徒を追い立てた観があります。目標へ近づけさせようという思い入れが体罰の容認となり、それに対する反省・反動に起因するのか校内暴力が日常茶飯事になった時期もありました。情念によって支配されている精神的に半ば白紙状態の生徒を社会的認知のない方向へは導きがたい。かといって、その生徒の資質にあった方向に導こうとするには、今の日本職種に対する貴賎感覚が全くなくなったわけでもなく、他方少子化によって一部の教育機関は生き残りに専念しようとしている面もあり、また、その子の両親の受験当時の状況とはかなり様相が変わっており親の助言・要望はかえって子供を混乱に陥れてしまう場合もあり問題を複雑にしています。
 学歴が上がればそれにつれて生活が安定するというのは、もはや過去の話であり、日本人それぞれが日々世界の政治体制・経済の趨勢に影響を被る中では、かつて社会的認知を確実に得た職種もこの価値観の流動の中では定位置を保ちがたくなっています。勢い、老後のことまでを考え財産を多く貯めるか、個人的に限界を諦観した上で自分なりの満足を得ることにするかの二極化ともなりえません。
 さて、日本に住み続ける以上、価値観の流動などは毎年変わるファッションの変動と同じであり、日本人には何故かそのような変動を受け入れる体質ができあがっているとして話を戻すと、高学歴で収入が多く安定している人はほんのわずかです。高学歴の人は毎年生産されているわけであり今ではかつてのように一握りの存在でもなく、旧帝大の卒業者が未だこの日本の枢軸を牛耳っているわけでもありません。学問することは立身出世の必須条件ですが、学問することが必ずしも経済的富裕ともともと直結しているわけではありません。
 では、何のために学問が必要なのでしょうか。一口に学問と言っても社会を理論的にとらえあるべき様を想定する社会学・経済学、日常に見られる現象を解析する物理学・数学その他多岐にわたっており、また一個人ではすべてを考究・修得しうるものではなくなってしまいました。伝統的な倫理説に立った上でのものですが、学問は昔から言われているとおり自分自身を高めるためです。あるいは、公を利するためのものです。学問の領域によって性格上一方のみに偏ったり、両者を包摂するものがありますが、学問を皆が尊ぶ理由もここにあります。
 学問修得には、記憶力・理解の速さが要求されます。特に高校卒業後、あるいはその後数年間のうちに大学進学をするのが常識となっている日本では、大学が課す入試問題を解く上での知識量がほとんど絶対的価値を持っているのですが、記憶されただけの受け売りの空学問は何の効力をも発揮し得ないのに、合格した本人は高学歴を得たことを誇りとし学問の存在理由を疎かにしてしまう傾向がないともいえない状況になっています。現在、有名大学であるからということで、その人物を評価することを疑問視する企業が増えてきたことは、楽観的に言えばこのような弊害に対処するためとも思われます。何よりも学問をしたからには判断力を求められるものだからでしょう。
 それでは、どうすればいいのかという具体的な方策を立てるのがこのコラムの趣意ではなく、意識改革を促すことに主眼を置いています。つまり、過度の生徒に対する心入れは生徒側の思い上がりの助長、あるいは、自立心・判断力の減衰につながりかねないのではないかと思うのです。
 教えることが教師の職務ですが、逆に教えないことも教師が判断する職務の一つと考えます。孟子は次のように言います。
  孟子曰、「教亦多術矣。予不屑之教誨也者、是亦教誨之而已矣。」(告子下・16)
 孟子は言われた。「教え方にはいろいろある。私が教えずに拒絶するのも、自省を促すためであって、これも教えることに他ならない。」と。(解釈は朱子注に拠る。)




下線の所は僕自身も薄々と感じていた所で、最近は生徒達の主体性を持って欲しいとの思いから、あまり教えず自分で考えて行動させるようにしていますが、生徒達は突き放されているように感じているのか授業中に違和感を感じます。


王陽明先生の言葉が・・・・・


知の痛切にして誠実なるところが行であり、
行の明確にして精密なるところがほ知にかにならず




知るは難く・・・・行うもまた易からず・・・・・



・・・・修養します。
posted by ジン at 16:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 儒学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

王陽明先生の詩

門下生と別れた時に書いた詩

長く続いた儒学は、はや千年
良知の二字は口伝え 
本来的な心の良知を会得しようとして、やたら手を加えてはならない
定規が円を作り出すように、良知は羅針盤だと気づきなさい
この良知は普段の生活に発揮されながら
実は天の意志・発意と直結したもの
分かれ道を前に手を握ればもう言葉はいらない
行儀よくして辛くとも別離の宴席を汚してはならない



備忘録です。
posted by ジン at 14:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 儒学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月25日

水五訓

カンボジア生活68日目


水五訓

1. 自ら活動して他を動かすは水なり

1. 障害に遭いて激しその勢力を百倍するは水なり

1. 常に己の進路を求めてやまざるは水なり

1. 自ら潔うして他の汚濁を洗いしかも清濁併せ容るるは水なり

1. 洋々として大海を満し発しては雲となり雨と変じ凍っては玲瓏たる氷雪と化すしかもその性を失わざるは水なり



この水五訓は、最近知ったのですが、陽明学でいう心即理だと思いました。

心即理とは、命題の一つで人間は生まれたときから心と理(体)は一体であり、心こそ理であるとする考え

変化を受け入れ、驕らず高ぶらず性を失わない
そして、自由自在

水は水ですが、水五訓を人間に例えると心と体が一つであるということに気付く

水のような心が大切であり、水に学び、自然に学ばなければなりません



posted by ジン at 16:20| Comment(2) | TrackBack(0) | 儒学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月10日

自殺とうつ病について

現在、僕はカンボジアにて授業の一環として「日本での自殺の現実」と題して資料を作成し、授業をやろうとしています。

日本の自殺者は年間3万人超・・・

一日で約82人の方が自殺で亡くなられていることになります。

自殺未遂の人は自殺者の約10倍だそうで、年間30万人となり、
一日に約820人が自殺を図っているということになりますね・・・

自殺や自殺未遂によって本人に関わる家族や友人も深く心理的に影響します。

一人の自殺や自殺未遂で周りの人々5〜6人の人々が傷つくと計算して・・・年間180万人の人に深い影響を与えていることになります。

カンボジアでは正式に自殺のデータはないので、何とも言えませんが、自殺は日本ほど酷い状況ではないと聞きます。
自殺の原因は恋愛問題が多いようです。

今後カンボジアも経済が成長し続け、環境も変わり、人間関係も複雑になり、自殺者が増えるのではないか?と僕は心配でなりません・・・


自殺の大きな原因と言えば、「心の病」

うつ病です。


この、うつ病について陽明学研究家である林田明大先生が先日ブログで書かれていたので紹介します。↓
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


うつ病の方のほとんどが、誠実な方、まじめな方である

「うつ病」という単語を聞く機会が多くなった。
 それだけに、他人ごとではなくなったということである。
 私でなくても、そう実感する人はきっと多いに違いない。
「今更ながらに思い返せば、ああ、あの時のあの人の症状こそが、今でいう躁鬱病だったんだ」
 という風に感じる人も多いに違いない。
 どうやら、医学用語として定着したのは、最近らしい。
 皇室の雅子様、安全地帯の玉置浩二はうつ病だというし、自殺した落語の桂三木助もうつ病だったという。
 私も知っているが、症状そのものは、以前からあったのだ。
 これは私見だが、一致していることがある。
 経済的に追い詰められている人には、見られない症状なのである。
 つまり、経済生活への不安があまり無い方ばかりである、と私は思う。
 だから、躁鬱病の方が甘えているなどとは、決して思わない。
 というのも、もう一つ一致していることがあるからだ。
 それは、うつ病の方のほとんどが、誠実な方、まじめな方である、という点である。
 もちろん、今では、これ幸いに、うつ病を演じる方もいるだろう。うつ病だと認定されることで、気楽に生きたいという人も増えていくに違いない。
 私が問題にしたいのは、そんないい加減な偽うつ病患者のことではない。


気配り心配りをすることが、どういう意味を持つのか、自分の人生にどういうメリットがあるのかを心底理解できない限り、それは日々拷問に等しい作業となる


さて、我が国がアメリカナイズしてきたことと無関係ではない、と私は思っている。
 人はいかに生きるべきか、という問題と密接に関係している、と私は思うのである。
 我が国は、明治維新以後、さらには、戦後、この問題を不問に、棚上げにしてきたのである。
 その成果が、一方では政治家に2世を誕生させた。
 かつて、政治家は、命がけの職業であったはずである。我が国がアメリカナイズして来ると同時に、その命がけの危機が去ったことと、政治家2世が誕生してきたこととは、大いに関係しているのだ。
 と同時に、アメリカでも増え続ける一方の躁鬱病が、我が国にも蔓延してきたのである。
 例えばの話、気配り心配りをしなさい、と教えられても、そのメリットが心底理解できないままに、気配り心配りを続けても、意味がないのだ。
 何故ならば、やがては、一方的に気配り心配りをすることに疲労困憊し、嫌気がさして、
「自分にはできない。私って、ダメな男(女)だ」
 という自責の念に駆られ、それが引き金となって、自信喪失に、さらにはうつ病になっていくのであろう。
 というのも、私自身、とても内向的な性格なので、過去そういう危機を感じてきたし、その都度、対処方法を模索し、なんとか乗り越えてきた感がするからである。
 気配り心配りをすることが、どういう意味を持つのか、自分の人生にどういうメリットがあるのかを心底理解できない限り、それは日々拷問に等しい作業となる。
 私は、ルドルフ・シュタイナーの人智学に学び、さらには陽明学でそのあたりのことを心底理解することができた。
 だからこそ、人のために生きることが苦ではなくなったのである。
「自利利他」
 という言葉があるが、その境地はよく分かる。
 だからこそ、心底、そう思って生きているつもりだ。


「人生に、苦悩するだけ、まじめな証拠、悩みなき人に、成長はなし」


誰であれ、善人を演じて生きるという、そういう中途半端な時期もあることは事実。
 でも、そういう状態というか、時期から、真の善人にとは言わないまでも、真の善人への道のきっかけを掴むことが出来るのか出来ないのかの差は、大きい。
 うつ病を克服するには、
「考え過ぎないこと」
 があると思うのだが、こればかりは、自分にそう言い聞かせても、思うようにはならないから、苦しいのである。
 言い換えれば、好きな絵を見る、好きな音楽を聴く、好きな映画を見る、大自然に身を置いて、リフレッシュを試みる、ということである。その間は、考えすぎることがなくなる(笑)。
 あるいは、絵を描く、音楽を演奏する、書を試みる、農作業や園芸を楽しむ、子どもと遊ぶ、でもいいのだ。
 試みて欲しい。
 とはいえ、これらは対処療法である。
 だから、同時に、心理学ではなく、東洋思想に目を向けてみて頂きたい。
 とはいえ、東洋思想だからいい、というわけではない。
 何であれ、どこの世界にも、どのジャンルにも本物と偽物がいる。
 興味がある方は、私の本ブログのバックナンバーをご一読あれ。
 私からの一言、
「人生に、苦悩するだけ、まじめな証拠、悩みなき人に、成長はなし」
 深く苦悩するということは、飛躍的な成長へのジャンピング・ボードなのである。
 今後も、うつ病については、あくまでも私見だが、触れさせて頂く。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
興味のある方はコチラへ↓
林田明大の「夢酔独言」
http://blog.livedoor.jp/akio_hayashida/



posted by ジン at 10:19| バンコク ☁| Comment(4) | TrackBack(0) | 儒学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月05日

『事上磨錬』で気付いた事

僕がいつも読んでいる林田明大氏のブログより

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

自分磨きの場が、家庭であり、会社であり、地域社会なのである


人間修養と家庭や会社経営とは、別ではない。
 個人にも、家族にも、社員にも、想像を超えた様々なトラブルが待ち受けているわけで、そのトラブル、苦難困難から逃げることなく、それを乗り越える度に、人々は 鍛えられ強くなっていく、成長していくのである。
 苦難困難に出合ったその時に、大きくものを言うのが、心にある物差し、羅針盤である。
 何を心の指針にしているのかを問われることになる。
 私の場合は、陽明学であり、人智学なのである。
 自分磨きの場が、家庭であり、会社であり、地域社会なのである。
 自分さえよければではない、中庸の精神で、家庭も、会社も運営されなければならない。
 だから、王陽明は
「事上磨錬(様々な出来事の上で自分を磨く)」
 と説いたのである。
 何度も言うようだが、私欲をかきたてるような誘惑物を遠ざけて、山の中でする修養よりも、世俗に身を置いての修養、つまり
「ウナギ屋の前の断食」
 の方が、はるかに厳しいのだ(苦笑)。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


これを読んで改めて気付いた・・・・
陽明学の本は読んでいたが、僕は・・・私欲をかきたてるものを遠ざけていた・・・

例えば・・・いつも多めの金を財布に入れておくと・・・ついつい無駄使いしてしまう・・・

だから、銀行に預ける(笑)

でも、預けることなく多めのお金はあるけれど・・・無駄使いをしない心が本当の強さなんだと・・・(苦笑)

日々修養!修養!!

これからは「うなぎ屋の前の断食」の精神で心を修養せねば!!(笑)
特別に環境を変えることなく・・・何気ない日常から学ぶことが「事上磨錬」

ん〜 改めて深い・・・
posted by ジン at 16:12| バンコク ☁| Comment(0) | 儒学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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